吉良星春 ストーリー
「すべての生きとし生けるものの命が、等しく大切にされる世の中になってほしい!」 彼女が一貫してぶれないそのテーマを作品づくりにする背景には、とある体験から始まります。
絵がすべてだった子供時代
吉良星春さん(以下あかりさん)は、何歳から絵を描いているかと聞かれると、こう返答しています。
「生まれてから筆を持てるようになってすぐ絵を描き始めました。」
画家小磯良平氏を支持していたおじいさんのアトリエで幼少期を過ごし、またその家には陶芸の部屋や木工の部屋もあり、おのずと芸術となじみ深い日々を過ごすことになったといいます。
生まれつき身体が弱く、ほかの子供たちのように外で遊びまわれなかったこともあり、絵や絵本・漫画の世界で自由に思いを表現していきます。
そして、あかりさんは共感覚・感覚過敏・LD・HSP・その他スピリチュアルな特性などを持っていたそうで(みんなのオーラで黒板がよく見えないなんてことも!)
まわりとチョット変わっていたためにイジメられたりハミゴになることも多く、ニンゲンの友達よりも自然や動物と話している方がずっと楽しかった!という子供時代でした。
光の国で見た、命の煌き
幼い頃からアニマルウェルフェアに興味があり、小学1年生の時に作ったお話にはすでに命の大切さや平等さ、またこの世のジレンマなどが描かれていました。
そんなあかりさんは、18歳の時のある日、臨死体験をします。
「光の国へ行ったとき、自分も光の一部となってたくさんの光(命)の輪の中に入ろうとしていました。
光はどれも尊い命(魂)で、人間も動物も一緒で、生きとし生けるものすべてはやはり本当に平等なのだ、と教えてもらった美しい貴重な体験でした。
いつも絵を描くときはその世界とつながっています。」
その色とりどりの光の国は、彼女の描く暖かくホッとする色づかいにもつながっています。
1999年、中国でパンダの里親に
こちらの世界に無事帰ってきたあかりさんでしたが、絶えない動物虐待や密猟、殺処分など理不尽なこの世の中に心を痛め、動物たちのために何か自分にできることはないだろうか考えていました。
1989年ごろには、保健所で殺処分されていく犬たちを独自取材したものの、大したことが何もできない自分の無力さを感じていました。そんな彼女に、運命の1999年が訪れます。
初個展を開き、その売り上げを絶滅危惧種のパンダのためにあてたいと考えていた時、毎日新聞紙上でパンダの里親制度を知り、制度を作った日本人の旅行ジャーナリスト・生内玲子さんに連絡を取り、翌月には一緒に中国・臥龍市の保護研究施設を訪れることになります。
センターの所長である張和民氏より里親になる手続きを経て、生まれて2か月の女の子のパンダとご対面。
腕の中のふわふわの小さないのち…。
赤ちゃんパンダに「イエイエ(曄*曄)」(キラキラ輝いているの意味)と名づけ、以来里親として養育費を送り続けています。その時のイエイエの甘い香りと温かさは、愛しく護るべき命の大切さをいつも思い出させ、吉良さんがパンダや動物たちを描くときのエッセンスになっています。
「近年パンダブームで、パンダが大好きな人が多くなったけど、絶滅危惧種だとまで知ってる方は意外とわずかだと感じていました。「『かわいい』と思うだけでなく、絶滅の恐れがあることその背景にある人間とのかかわりも広く知ってもらえるように…絵を通してがんばりたいです」と、あかりさん。
そしてパンダと接していると学ぶことが多い、といいます。
「平和が好きで、楽しいことが好きで、いつも微笑んでいるみたい。
パンダのココロになれるといいですネ。」
「火筆師」になる
あかりさんが、特別な画具「火筆」(ひふで・ホァビィ)で木を焦がし絵を浮かび上がらせる瞬間、見ている人は歓声をあげます。
火筆と出会ったのは1999年。曄*曄の里親になりに訪れた中国・上海市のホテルのロビーで火筆名人の羅成驤さんの実演を見かけたときでした。目の前で、木の焦げるいい香りとともにあっという間にできあがったパンダや絵に目を見張ります。
自分も画家であることを伝えて、持っていた作品を見せると、「弟子にならないか」と誘われ、それから2年後と3年後に羅氏の来日が叶い、数カ月間の特訓を受け、晴れて習得を認められ自身の火筆を作ってもらうこととなります。
「樹と対話しながら描くんですヨ。頭で描いたらとんでもないことになる(笑)。心で描くことがとても大事。描きなおしが効かない一発勝負なので、火筆を入れる時は、毎回心頭を滅却します(笑)修行みたいです。
しかも、お客様とお話しながら筆をすすめることが師匠の教えで…指がまがってしまうほど特訓しました!」
墨絵のようなタッチで描く火筆は、モノトーンのパンダを描くのにぴったりの画法です。
こてが木板に触れるとじゅうっと音をたて、焦げたにおいが広がります。
「この焼き芋を焼くときのようなにおいが好きなんです」
樹の種類によって香りはさまざまで、見る、触る、匂う、など五感で楽しめるところも魅力のひとつです。火筆師は世界で師匠を含めて3人、日本ではあかりさんが唯一です。
TERREとの出逢い
ある日、彼女のもとにペットショップで売れ残り処分寸前だった1匹のビションフリーゼがSOSを送ります。そのドラマみたいな出逢いを経て、生後11か月のビションフリーゼの男の子は、あかりさんのもとへやってきます。
ある日のこと、あかりさんは、ペットショップにいる生後半年の白い可愛いワンコと出逢います。先代のワンコとどこかしらそっくりだったからか、親近感をなぜか感じてその場を離れがたく思っていました。しかしその時はすぐあとに海外旅行を控えていて今は飼えないけど、こんなに可愛いんだから、すぐに貰い手があるだろうな、、と帰路へ着きました。
それからさらに半年が過ぎようとしたころ、ある朝、夢に白い丸に黒い丸が三つ!!
バーン!!と浮かんで、ガバっと飛び起きたあかりさんは、「あの子だ!呼んでる!!」と確信して、ペットショップへ向かいます。
そこには、姿はないものの大幅に値引きされた張り紙だけがあり、ふと気づくと店の暗い奥に、排せつにまみれガリガリになった野良犬のような彼を見つけました。
見せてほしいと言っても「汚いから」と出してもくれなかった店員さんに交渉して、奥から連れてこられた茶色くなった細いワンコは、あかりさんを見て嬉しくて嬉しくてその場を走り回ったと言います。
「ひどい仕打ちを受けたにもかかわらず、笑顔がはじけて明るくて。1回も牙をむいたりうなったこともないんです。
生後11カ月まで外に出してもらったことがなくお日様を見たことがなかったので、これからは自然をいっぱい堪能して、この世に生を受けたことを幸せだと思ってくれるように育てたい!という願いをこめて、地球を意味する「TERRE」(テール)と名付けました。
ちっちゃな心についた傷はだんだんと癒され来てくれて、今では甘えん坊のおちゃらけワンコになって、私のことを支えてくれているかけがえのない存在です。」
きらあかりのアニマルカービング
こんな作品を作りたい、動物のカービングを習える教室を探していて、バードカービングの竹内清先生と出逢い、指導の下、独自の感覚も取り入れながらアニマルカービングの世界を作り上げているあかりさん。
「木を削って動物の形にしていき、焼き鏝で毛並みを細かく表現します。その後、絵の具で色彩をつけ、細かい描写をしていきます。
木とは思えないような繊細な毛並みの柔らかさを出すことが楽しいですが、絵と違って3Dなのでごまかしはききません(笑)
樹ならではのぬくもりを活かしながら、温かい命を表現していきたいと思っています。」
師匠にめぐまれた一生
最初の絵の先生はやはりお爺さんの三谷恒夫さんでしょう。
そのお爺さんが他界した後、宇都宮市でそっくりな絵の先生と出逢います。油絵画家の田中彦次先生です。
お爺さんと同じように、旅やスケッチや新しいことが好きで、絵のほかに陶芸もされていて、あかりさんの自由な発想をとてもほめ、引き出してくれました。
関西に帰ってきた後も、いい先生との出逢いは続きます。日展画家の寺島節郎先生や、大学で教わった児童文学の教授竹内オサム先生、カービングの竹内清先生など、技術だけではなく生き様も助言して下さる素晴らしい先生方に応援して戴き指導して戴くことができました。
また、弱い身体との対話に心が折れ自信を失いそうだった時期、ご縁があってムーミンの作者のトーベ・ヤンソンさんと文通する機会に恵まれます。
丁寧に真剣に返してくださる手紙や、ウイット・ユーモアに富んだキュートな表現に触れ、自然への畏敬や愉しみも忘れずに生きて絵を描き続けていたトーベさんの熱い姿勢に勇気づけられ、今でもあかりさんの心の師匠です。
ご縁
2009年より神戸北野にOPENした「きらあかりアーティストショップPanda no Mimi」は、6年間隠れ家のような人気のスポットで、テレビ局の方もよく取材に来られました。
体調を理由に閉店したあとも、全国・世界各国のお客様とあかりさんのつながりは続いています。
「絵を通して、たくさんの良きご縁に恵まれたことに心から感謝しています。
そのご恩返しも込めて、生き物たちの保護のために少しでもお役に立てれば嬉しいです。これからもパンダの歩みではありますが、日々精進していきたいと思いますので、応援していただけたら幸せです。」